奈緒の一日は、いつも、誰かのためにできている。
朝、目を覚まして最初に触れるのは、冷たい、フローリングの床。上の子のお弁当を詰めて、下の子の着替えをさせて。「ママ」「ママ」と何度も呼ばれて、ふり返って、また台所に戻る。保育園に送って、仕事に行って、帰って、ごはんを作って、お風呂に入れて、絵本を読んで。気づけば、日付が変わってる。
――奈緒が、奈緒自身のために使う時間なんて、一日のなかに、ひとつも、なかった。
夫の拓也は、優しい人。今も、たぶん。喧嘩をしているわけじゃない。手も上げないし、稼ぎもきちんとある。ただ――もう、二年。指、一本、触れられていない。
夜、布団に入ると、拓也は決まって背を向ける。最初の頃は、奈緒から身を寄せてみたこともあった。でも、寝返りのふりでそっと躱されるたびに、心のどこかが、少しずつ、少しずつ、すり減っていった。
いつからか、奈緒は、求めるのをやめた。“女”であることを、押し入れの奥にしまい込むみたいに、そっと、見ないことにした。鏡を見るのは、化粧を「直す」ためだけ。誰かに綺麗だと思われたくて鏡を見るなんて、もう、思い出せないくらい、昔の話。
……でも。本当は、消えてなんて、いなかった。おなかの奥の、ずっと奥のほうで、まだ、ちゃんと、疼いていた。見ないふりをしていただけ。――奈緒が、いちばん、わかっていた。
その日は、上の子の参観の帰りだった。
平日の午後。仕事を半休にして、久しぶりに、少しだけ背伸びしたブラウスを着た。参観のあいだ、まわりのお母さんたちの視線が、なんとなく気になった。着飾りすぎただろうか、って。――そんなことを思う自分が、少し、おかしかった。
夕飯の買い物を済ませて、両手にスーパーの袋を提げて、駅前の交差点で信号を待つ。西日が、アスファルトをオレンジ色に染めてた。――早く帰らなきゃ。下の子のお迎えまで、あと一時間。頭の中は、もう、夕飯の献立でいっぱい。そのときだった。
「あの……突然、すみません」
背後から、遠慮がちな声。最初は、自分に向けられた声だとは思わなかった。もう一度、今度は少しだけ近くで。
「そこの、ブラウスの女性。……はい、あなたです」
ふり返ると、知らない男が立っていた。若い、というほどではない。三十代の半ばくらい。けれど、目の光が、妙に、まっすぐだった。ナンパ、という言葉が頭をよぎって、奈緒は反射的に、半歩、身を引いた。
「変な意味じゃ、ないんです」
男は、片手を軽く上げて、困ったように笑った。
「さっき、駅の向こうからずっと歩いてきたんですけど……なんか、あなたのことが、目で追えなくなっちゃって。声、かけずに行ったら、たぶん一生、後悔するなって」
あまりに、率直で。奈緒は、どう反応していいか、わからなかった。断り方なら、いくらでも知ってる。「すみません、急いでるので」。その一言を言えば、それで終わる話。――喉まで、出かかっていた。
「お子さん、いらっしゃるでしょう」
男は、奈緒の手元の買い物袋に目をやって、言った。
「なのに、ぜんぜん、“お母さん”って感じがしない。……失礼だったら、ごめんなさい。でも、ほんとに、そう思ったんです」
「この後、少しだけ、お時間ありませんか?」
その一言が――なぜか、胸の奥の、いちばん柔らかいところに、ふっと、触れた。
おかあさん、じゃない。この人は、私を、“女”として、見ている。二年ぶりだった。誰かに、そんなふうに見られるのは。すり減って、しまい込んで、もう乾ききったと思っていた場所に、じわりと、熱が滲んだ。
「……少しだけ、なら」
気づいたら、そう答えていた。断るふりをしながら、渋々のふりをしながら、その男についていく自分を、止められなかった。
「レン、っていいます」
歩きだしながら、男は、そう名乗った。奈緒の少し前を、確かめるみたいに、ゆっくりと。
信号は、とっくに、
青に変わっていた。
03-3528-6814